いーぷくんの興味探求

高校2年生のいーぷくんが興味あること気になったこと全部記事にしていきます!

教育という場面において常識という名の価値観の押し付けは自律につながらないと思う

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僕の高校には集団行動という授業がある(本当に時代錯誤だと思う)鹿児島県でこのような授業をやってるのは僕の通ってる高校だけなのだが(同じ県の人ならすぐどの高校か分かってしまうだろう)それでも似たような集団教育的な雰囲気の体育の授業であれば、色んな高校でも行われていそうなのでそんなに珍しい話ではないはずだ。

 我が県の教育体制が少し遅れてるような気がしないでもないのだが、大人ではない僕が色々とここで言ってしまうとまた何か、人生経験豊富な大人のみなさんから色々と指摘を受けてしまうかもしれないのでこれはやめておく。

今回、僕がはなしたいのは鹿児島県の教育の遅れがどうとかそういう話ではなく(そんなことを知識の浅い僕が判断をしてしまうのは迂闊だと思うし)いた、しかしそれでも批判するのだが、結局のところ価値観の押し付けがどのようにして自律を妨げているのかを力説したいのである

ラジオ体操でのズレで怒号を受ける

僕の高校では体育祭に向けて、ちょうど今日から学校の体育の授業を使って練習が始まった。そんな中で今日は手始めにラジオ体操の練習が行われた(準備運動なのだから別に美しさなど必要ないと思うだが、彼らからするとこれは一種のパフォーマンスらしい)こう言った集団訓練の授業を担当す体育教官はなかなか厳しい人で、まるで軍隊からやってきたようなとにかく厳格な人だ。ラジオ体操が始まると教官に怯えるようにして生徒はみんな必死に指先まで神経を研ぎ澄ましながら周りとタイミングを合わせるようにして体操を始めた(そんな中でも彼の怒涛の手厳しい指導は止まらないのだが)しばらく体操を続けていると、突然、教官が凄まじい声で怒号をあげ、一人の生徒を呼びつけた。その子は何やら落ち込んでいて、周りの子と調子を合わせのが難しかったようだ。

おっと…少し愚痴が出てしまったが、こんな調子で生徒が自律できると言えるのだろうか。僕はそこに疑問点を感じる。

教育は生徒の自律を目的とするべきものではないのか

多くの教員が日々、生徒に向かって「〜らしい振る舞い」や「〜として行動をしろ」とかそういったことを口にする。僕はこういったセリフが大嫌いだ。「らしさ」などといった言葉はその人の価値観や常識に基づいた言葉なので決して絶対ではないのだ。だからそれを教育として生徒教えるのは価値観の押し付けであり「考えて行動する生徒」ではなく「同じ考えの元行動する生徒」を生み出してしまうのではないのであろうか。結局は先生方もそんなに深くは考えてはいないのだろうか、こういったセリフは組織運営をしていく中で便利な言葉なのであろう。しかしそれが自律を目的とした教育ではないことであることは確かだ(もちろん本人は常識を教えることによって立派な社会人成長すると思ってるはずであるのだが)

価値観の押し付けは自律にはつながらない

ラジオ体操の話もそうであるが、教員の立場からみれば叱って生徒が機敏に動くようになり、そしてより自分のいうことを聞いてくれるようになってくれれば、それで生徒が成長してるように見えると思うが、実際に彼らが考えていることは、どうすれば叱られずに済むか、どうすれば目立たないでいられるか、とかそういったことであり、その場から教員がいなくなれば態度は一変し、教員の悪口が始まったりすることもある。結局のところ恐怖で子供を支配しいうことをきかせるというやり方は「自分で判断して行動する」といった自律とは繋がらないのである。

まとめ

というわけで今はまだ読者数が全然いないのだが、将来的にこのブログを学校教員の方に読んでいただいた時には少しでもいいのでこのことについて考え直してほしい。まぁこれも僕の価値観なので、僕の意見の絶対化はしない。とにかくもう一度「常識」という概念を使わずにこれについた考えを巡らせてほしいのだ。